太平洋戦争中の空襲で身体に障害が残ったり、肉親を奪われたりした人たちの会報がこの夏、復刻された。戦後76年。国は軍人・軍属には延べ60兆円もの補償をしてきたが、空襲など民間被害者は救済の「蚊帳の外」に置いてきた。戦争被害は耐え忍ぶべきだ、とした国の「受忍論」に挑んだ記録として、大阪の研究者グループが注目し、刊行した。
復刻されたのは、「大阪戦災傷害者・遺族の会」の機関誌「息吹(いぶき)」(1983年8月~2006年5月)と、前身の大阪戦災傷害者の会の「会報」(1980年3月~82年6月)。代表の伊賀孝子さん(89)=大阪市=から資料提供を受けた歴史研究者らでつくる「大阪空襲被災者運動資料研究会」が、解説も付けて冊子にした。
日本が「経済大国」になった1980年代、救済なき空襲被害者への補償を求めて手をつないだ大阪の人たち。結束を強めたのは、大阪大空襲で顔や手にやけどを負った女性が自死したことでした。
「犠牲者を二度と出さない為にも会員同士の交流を深めたいと思います」
「会報」の第1号が発行された80年は、日本の自動車生産台数が世界一を記録するなど、街から戦争の痕跡が消えかけていた時期だった。
会結成の契機は72年、名古屋空襲で左目を失明した杉山千佐子さん(2016年に101歳で死去)が救済立法を求めて全国戦災傷害者連絡会(全傷連)を旗揚げしたことだった。戦後、国は旧軍人・軍属やその遺族には年金や恩給を支給したが、空襲被害者は「国との雇用関係がなかった」と蚊帳の外に置いていた。
会報第1号にある「犠牲者」とは、杉山さんに呼応して大阪の会を立ち上げた片山靖子さんのことだった。5歳の時に大阪大空襲で顔や手に大やけどを負い、自費で整形手術を繰り返しながら活動を率いていた。だが、40歳だった79年10月に自死した。
「一人では弱い。しかし一人でも多くの力を合わせればそれだけ強くなります」(会報から)
引き受け手のなかった代表に就いた伊賀さんは、大阪大空襲で母と弟を失った遺族であり、顔や手に重いやけどを負った戦災傷害者。まず始めたのは、差別を恐れて自宅に閉じこもっていた戦災傷害者の自宅を訪ね歩き、体験に耳を傾けることだった。
当時、旧社会党などは民間戦…
Source : 社会 – 朝日新聞デジタル